Lesson 12
喫茶店
知人宅を訪ねるために、妻と訳で待ち合わせた。念のため電話して みると、よかったらもう少し時間を遅らせてもらえますかという。 それで連れ立って駅前の喫茶店へ入った。
黒っぽいドアを押して一歩踏み込むと薄暗い室内に頬も触れんばかり に (1) 肩を寄せ会った若い男女の姿が浮かんでいる。「おや、こりゃ アベック向きだ」と私が言うと、妻は「そうね、じゃほかへ 行きましょう」と素直に同意してさっさと (2) 通りへ出てしまった。 アベックというのは本来誰かと一緒にという意味のフランス語の はずだ。それなのに、それが若い未婚の恋人達というふうに 限られているのもおかしいが、日頃若いつもり (3) の妻が自分達は もうアベックじゃないとあまりにもあっさりと (2) 認めた事がなんだか 後で考えるとおかしくなって、ついひとり笑いをしてしまった。
薄暗い電灯のもとで、一杯のコーヒーを前に、静かな音楽に 聞き入りながら語り合うこの喫茶店、入ったら最後 (4) 何時間でも 動こうとしないお客さん達は、まず若い人達ばかりといって 差し支えない (5) 。家庭でも十分コーヒーは飲める。わが家の コーヒーでも、味と香りにかけては (6) そこらの安い喫茶店のに 劣らないかもしれない。しかし、そのコーヒーには、どこか 生活の垢とでもいうべきものが浮いているような気がする。
それに対して喫茶店で茶を飲むひとときは生活から切り離された ひとときである、小さなピカピカ光るテーブル、斬新な形をした 灰皿、しゃれたマッチ、十五分前までぬかみそをかきまわしていた お手伝いさんも、最新流行のスーツを着てここの椅子に座れば 生活の苦労を知らぬお嬢さんである。そこでカラー・ストッキング の脚をちょっと斜めに組みでもすれば、一場の映画のシーンと 見えないこともない。相手の青年の少し色の黒いのは、薄暗い 電灯のおかげで気にならなくなる。確かに若い人の心を引き付ける だけのことはある。その魅力をムードと片付けてしまえばそれまで であるが、更に一歩突っ込んでみると、それはむしろ純粋なものの 魅力、生活から浮き上がったものへの憧れではないかと思われる。 ここには生活がない。生活の垢がないと同時に生活の支えもない。 純粋なものは美しい。と同時に危険をはらむ。喫茶店の純粋な 空気を吸って育った恋の花は、世の荒い風に散りやすいかもしれない。 純粋なものの持つもろさ、そんな事を考えるようになっては、 私ももう年、アベック向きの喫茶店に入る資格はないわけである。
会話文
A: この頃、やに (7) 喫茶店がふえたね。とても 数え切れそうもないくらい。
B: 一口に喫茶店といってもずいぶん店に よって性格が違うね。
A: 僕なんかどっちかっていうとクラシック やってる店へ行く事が多いけど。
B: 僕はジャズ喫茶店だな。
A: ずいぶん音のいいのと悪いのとあるね。 ひびわれた音出して平気でいることも多いね。
B: クラシックだと音のいい悪いがずいぶん 気になるだろうね。僕のほうはにぎやかなら、ちょっとぐらい 音が悪くたってかまやしない (9) さ。
A: よく本読んでる人がいるだろう。まわりで いろんな雑音立ててるのに、よく本なんか読めると思ってね。 感心してるんだよ。
B: でもしゃれてると思わないかい。本を 読みながらたまに瞑想にふけるなんてのは。
A: この前、四ッ谷の「田園」でね、絵、 描いてる人がいたよ。ちょうどドビッシーの「月の光」を やってる時でね。それもスピーカーのすぐ前で。僕は羨ましかったよ。 垢じみた生活とは縁遠い中で、芸術に没頭できるなんて。
B: でもそこから生まれる芸術なんて夢みたいな (8) ものじゃないかな。僕は芸術はあまり生活から浮き上がってしまっても (10) 、 訴えかけるものがないように思うんだがなあ。
A: 純粋な美しさってものだってあるさ。
B: でも真の芸術というのは純粋なばかりじゃ だめなんだよ。人間の中にあるいろいろの矛盾、葛藤、それを 乗り越えて生まれ出たものこそ人に訴える事が出来るん じゃないかなあ。
= 留 意 語 句 =
知人宅を訪ねる。
念のため。
時間を遅らせる。
音楽に聞き入る。
危険をはらむ。
空気を吸う。
… は数え切れそうもない。
平気でいる。